大判例

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大阪高等裁判所 昭和45年(う)681号 判決

被告人 松浦アサ子

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は弁護人中垣清春作成の控訴趣意書に記載するとおりであるからここにこれを引用する。

所論は要するに原判決は原判示のとおり売春目的で客待ちしていたものとして被告人に対し有罪の認定をしたが、これは事実誤認であつて、被告人はそのような所為に出でたことはなく無罪であるというのである。

よつて本件記録を調査し当審における事実取調の結果を参酌し、各証拠を検討すると、被告人は原判示日時頃、原判示場所で、河野よし子と共に売春防止法五条にいわゆる「客待ち」の現行犯として逮捕されたこと、逮捕者は兵庫警察署聚楽館派出所勤務の巡査半沢信彦であり、同巡査は相勤の山本巡査と共に被告人らが売春防止法違反のいわゆる勧誘等の多数の前科があり、又自ら同法違反により検挙したこともあつてその顔を知り、当日も従来屡々検挙したことのある本件場所付近にその姿を認めて張込みの上逮捕するに至つたものであることが認められ、以上の経緯から見て原判決挙示の証拠、殊に被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書並びに原審証人半沢信彦の尋問調書等により、原判示事実は形式的には一応これを肯認し得る証拠が揃つているといえよう。

しかし、右各証拠の内容も更にこれを仔細に吟味すると、なお、検討を要する幾多の問題点が伏在しており、たやすく原判示事実を認定するには躊躇を感ぜざるを得ない。すなわち

(一)  被告人には一応後記自白調書があるとはいえ、現行犯人として逮捕された当初は犯行を否認しており、更に原審公判の全過程を通じ終始否認している。

(二)  一応自白調書と認められる司法警察員及び検察官に対する各供述調書も、つぶさにその供述の内容に立ち入つて見ると、被告人は売春の目的で原判示場所に居合わせたことを否定してはいないものの、その供述内容は前科前歴に関する詳細な事項を別とすれば、本件構成要件事実たる公衆の目に触れるような方法での「客待ち」行為そのものに関する具体的内容は後記(三)記載の部分を除き、殆んど認められず、その実質は、結局において売春目的を肯定する以上に出でず、到底「客待ち」行為そのものの自供とは認められない。

(三)  右調書の中で、問題となるのは、(1)司法警察員に対する昭和四四年八月八日付供述調書中の「私が午後八時少し前頃立ちはじめてからすぐ、年令二四、五歳位の一見やくざ風の男が北の方から歩いて来たので、じつと顔を見つめました。」「声は全然かけておりません。私の前を通つて行かれた丈けです。」という部分と、(2)同年八月九日付検察官に対する供述調書中の「通る男の人の傍によつて行つては声をかけて誘い、そのまま三足、四足一緒に歩くという、これまでと同じ方法をくり返えしておりました。一昨夜はまだ一人も客がつかない中に捕まつて了いました。」旨の部分とである。

これを要するに、前者(八月八日付供述)は「客待ち」につき、全然声をかけず通る人をじつと見つめただけであつたとし、後者(八月九日付供述)は、通行する人の傍に行つて声をかけて誘い三足、四足客と一緒に歩くという従来の方法と同じ方法をくり返えしていたとするのであり、それは、供述の日時において僅か一日の差であるに拘わらず、「客待ち」行為の具体的方法に関する限り、両者は全く相容れない内容の供述であつて、にわかに、そのいずれとも心証をとりがたい。しかも、右相容れない供述の前日までは全くこれを否認して来ているのであり、その意味で被告人の供述は二転三転しているといえるのであつて、むしろ、このこと自体、右両供述調書のこの部分に関する供述の信憑力を甚だしく減殺するものといわざるを得ない。

しかも、右自供には、いずれも、これを補強するに足りる証拠もない(半沢信彦証人の証言についても後記詳細に説示するとおり、これまた、右自供の裏付けとはなしがたい。)。

(四)  次に、残る実質的証拠としては、原判決も挙示するとおり逮捕当時の状況を語る巡査半沢信彦の証人としての供述がある。

そこで、原審における同証人の供述記載を当審における証言と併わせ参酌しつつ検討すると、被告人逮捕の経緯につき、次の事情を認めることができる。

(1)  被告人らの立つていた原判示場所をその管内に持つ兵庫警察署聚楽館派出所勤務巡査半沢信彦は、相勤の山本巡査と共に被告人らが従前より売春防止法違反のいわゆる勧誘等による多くの前科があり又屡々検挙されたいわゆる売春の常習者としてその顔をよく知つており、且つ当日も前示のとおり被告人らが従来屡々右「勧誘」等のために出没していた本件場所付近にその姿を認めたところから「勧誘」行為取締りのため張り込みを行うに至つたこと。

(2)  両巡査は顔を知られている被告人に気付かれることなくその場所を上から見張ることのできる位置として松竹劇場上のベランダを選定し、午後七時半頃から同劇場西側のコンクリートベランダ上にひそんで、被告人が姿を見せるや、その頭上の見下ろせる位置から時々気付かれないように被告人らの動静をその背後の真上からさしのぞくという方法により見張りを続けたこと。

(3)  そして被告人を逮捕した午後八時二〇分頃までその動静を見張つたが、結局その間当初の張込みの目的であつた「勧誘」行為の決め手となる所為をとらえることができず、やむなく、いわゆる「客待ち」の現行犯として河野よし子と共に逮捕するに至つたものであるが、河野はその後捜査段階で釈放され起訴されなかつたこと。

同証人の証言中、以上の認定と抵触する部分は、他の証拠と対比し措信できない。

(五)  以上の事実に徴すると、その間、同証人は被告人の所為としては通常人のいわゆるデイト又は待ち合わせ等と区別すべき何らかの特徴的な態度或は動静を確認したものではなく、単に人通りの多い街頭の前示場所に立つている被告人を前示方法によりその頭上から時々見たというにすぎず、要するに被告人の客観的態度又は姿勢としては、街頭に佇む通常の通行人のそれと全く区別のないものであつたことは、同証人自身の認めるところであり、又事実それは夜間、見張つていた位置からするも、被告人の頭の真上から気付かれないように時々見下ろすのであるから、「勧誘」行為についての張込としては格別、客待ち行為についてのそれとしては適切な場所、方法ではなく、被告人の微妙な表情の動きや目つきなどの細部の具体的表現については全く観察し得る機会を持たなかつたことはむしろ当然といわねばならない。結局、そこには、被告人の客観的或は外形上の態度からは、一般市民のいわゆるデイト又は待ち合わせと区別すべき特徴的なものは何も捉えられていなかつたものといわざるを得ない。

(六) ところで売春防止法五条三号にいう公衆の目にふれるような方法で客待ちする所為とは、いわゆる「勧誘」のように積極的に人に誘いかけるものではないとしても、自ら売春をする意思のあることを多数の人に表示し、相手方となる者の申込を待つ行為を指称するものと解するを相当とし、売春をする者自らの何らかの動作(動静乃至姿勢或は表情を含む。)によつて、少くとも売春をする目的のあることを明らかにするような積極的態度の存在することを要し、従つてその態度たるや通常人の街頭に佇む姿、或は前示いわゆるデイト、待ち合せ等の姿とはおのずから区別さるべきあるものを帯有しなければならず、しかもそのことは客観的に識別し得られる程度のものであることを必要とする。

けだし、このように解してこそ法が「客待ち」を「勧誘」とは別個独立の犯罪として取締の対象としている趣旨に適うものということができるのであつて、そうでなければ「勧誘」に至らないまでも、少くとも「客待ち」は常に成立し得るというが如き安易な解釈運用に堕する危険を多分に包蔵するからである。

(七)  しかるに、半沢巡査らが現行犯として被告人を逮捕した際には、被告人の所為或は態度としては、叙上の意味でのいわゆる「客待ち」行為と目すべき決め手となるような特徴的態度等は何ら捉えられていなかつたことに帰し、同巡査が現行犯として本件被告人逮捕に踏み切つた最大の実質的根拠は、ひとえに被告人が売春防止法にいわゆる「勧誘」等の多くの前科を有し、以前にも何回か検挙されたこの方面のいわば、札つきの常習者として同巡査らに知悉されて居り、且つ前示場所も屡々従来から勧誘等の目的で利用していた場所であることの二点を結びつけたことにあつたというにつきる。このことを逆にいえば、仮りに被告人らに同一の挙動があつたとしてもそれが他の場所であつた場合、或は本件の場所において同様の挙動があつたとしてもそれが被告人等以外の未知の女性であつた場合等には、いずれも到底これを「客待ち」の現行犯として逮捕するようなことはできなかつたものと思われ、現にこのことは同巡査も当審における証言において自認しているのである。

成程、以上の如き被告人の前科前歴や場所関係も亦、それ自体一の情況証拠となり得ることは否定し得ないとしても、本件の如き場合にあつては、他に何ら特段の決め手となるものがない以上、これのみをもつて本件「客待ち」行為を認定するに足りる証拠とはなしがたい。

けだし、これが許されるとすれば、被告人の如く多くの売春防止法違反の前科前歴によりその常習者と見られている者は、たとえ、たまたま真実一市民として佇立している場合等においても、反証をあげ得ない限り(通常それは極めて困難である。)いわゆる「客待ち」としてたやすく逮捕される危険にさらされているものといわなければならず、それは、ひつきよう、一の予断をもつて事を律するに等しいからである。

以上の次第で、本件「客待ち」行為を被告人が犯したものとするには前示証拠のみをもつてしては、未だ合理的な疑問の余地なき程度にその証明があつたものとはいえない。そして記録を調査しても、他にこれを認めるに足る証拠はない。

してみると、原判決には、以上のとおり証拠の取捨判断を誤り充分な証拠なくして原判示事実を肯認した重大な事実誤認の違法があり、右誤認は判決に影響を及ぼすこと勿論であつて、到底破棄を免れない。論旨は理由がある。

よつて刑事訴訟法三九七条一項、三八二条に則り原判決を破棄し同法四〇〇条但書に従い公訴事実につき更に判決する。

本件公訴事実は、「被告人は、売春をする目的をもつて、昭和四四年八月七日午後七時三〇分頃から同日午後八時二〇分頃までの間神戸市兵庫区中道通一丁目二三番地先付近路上において佇む等し、もつて公衆の目にふれるような方法で客待ちをしたものである。」というのであるが、すでに説示したところによつて明らかなとおり、結局犯罪の証明がないから刑事訴訟法三三六条に則り主文第二項のとおり判決する。

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